庭にまつわる物語をいくつか。
昔ながらの嫁入りの風習では、お嫁さんが家の庭を通り、嫁いでゆきました。
仏間から縁側を伝い、沓脱で履物を履き、飛び石を伝い・・・
ご近所の方々に見送られ、嫁いでゆきました。
高校の頃、バスケ部での学生最後の試合。団体戦で自分の失点で優勝を逃してしまった。
周囲の視線が冷たく刺さるような感覚から逃れたくて、黙々と家路へ。
夕闇がつつむなか、たどり着いてみる我が家の門灯が、やたらと温かく感じた。
家族は面倒な手入れを避けていたけれど、おばあちゃんがいつも庭の手入れをしてくれていた。
亡くなった今、孫のわたしが引き継いでいる。常に庭のどこかに花が咲いていることに、ふと気づいた。
昔、細川忠興と細川ガラシャという夫婦がいました。
2人は時代に翻弄され壮絶な運命をたどります。
その2人のお墓が、京都・高桐院に祀られています。お墓は本堂西側庭園奥に。
しかし実はもう一つ墓標があります。
それは本堂客殿前庭(通称”楓の庭”)に豊かな楓の木々に囲まれポツンと佇む灯篭。
忠興よりも先に逝ってしまったガラシャに美しい楓の風景をささげるため墓標の写しとして
置かれました。
妻との出会いが僕ら家族の始まり。第一子に恵まれ、守るべき家族の厚みが
少し変わった気がした。
そんな私達が新居への意識を持つことは、ごく自然な流れだった。
互いの実家がマンションや団地住まいだった私達は一戸建てに、ひどく憧れた。
共有廊下沿いの玄関にアプローチなどというものなどない。
居間の掃き出し窓を開けると奥行750センチほどの空間。
窓からの風景は決まってカーテン越しに揺れる洗濯物たち。
戸建ての住宅を手に入れれば、アプローチや庭・窓からの風景は、私たちの
それではないのだろう。
すべてが悪いとはいわない。それなりの生活の中で懐かしむ思い出もあったから。
ただ、窮屈で余裕のない思いを僕らの子供は味合わずに育っていくのかもしれない、と。
そして、子が巣立ったのちの僕ら夫婦にも、間違いなく何かを与えてくれそうな・・・。
そうして念願の新居を手に入れた。思いのほか苦労したけど・・・。
そうして、今、そのアプローチを、庭を、どうしようかと、妻と想いをめぐらしている。
あれ?新居を建築するよりも、なんだか少しワクワクしてる?
そう。新居を建築するって、ものすごい現実に長期間さらされて、竣工の時期に
差し掛かると、心は、ほぼボロ雑巾な仕上がり。
違う、それだけじゃない。もう一人家族が増えるというのも手伝ってる気がする。
長女は、まだ妹か弟かわからないのに『ここでね。赤ちゃんとプールするの!』
などと、はしゃいでいる。
こちらもその妄想につられているのかも。
車は?来客用の駐車スペースも考えないとな。樹は?手入れに自信はないけれど、
季節感を家族で味わいたいな。
ポストや表札はどうしよう?家はシンプルに仕上げたから、少しビビットな映える
色使いなんかもいいかな。
そういえば、照明に誘導されるようなアプローチに憧れてたんだっけ・・・。
いつか子供たちが巣立つころ、どんな想いをのせて、ココから羽ばたくのだろうか。
こうめぐらしてみると、妄想の度合いは長女<僕・・・かもしれない。
”庭”には、ひとりひとりの想いや物語が刻まれます。
『お庭造りは思い出創り』
『お庭の手入れは思い出を守ること』
『お庭造りは新たな想い・物語を形創ること』
ご夫婦の出会い、新たな家族の誕生、子育ての奮闘模様、巣立ちの訪れ
長年の趣味やあきらめていたこと、チャレンジしたいこと・・・etc
そのひとつひとつが物語を紡ぐ、大切なパズルのピースだと、わたくしたちは考えています